2026年2月18日水曜日

記憶というものの定量化

 1月に発表になった芥川賞の受賞者の一人(今回は二人いて、その片方)が、うちの子供と同じ大学の学科を出ているということで、早速、メールを送った。

最新の文藝春秋に選評を含めて掲載されているのを、選評のところだけ拾って読んだ。作品を読むまでにどれくらい熟成させることになるだろうか。

「時の家」という受賞作をChatGPTとGeminiに解説・批評させると同じような回答をはじき出した。「時間とは流れるものではなく蓄積するものである」という捉え方が作品の主要なポイントになっているようだ。いわゆるストックとフローの関係で、これまでフローだとおもわれていたものをストックの観点から捉え直すという斬新さ、というと単純化し過ぎだろうか。

時間をストックとして捉えるときに、「記憶」という観点から見ると捉えやすい。しかし、記憶は定量化できないし、もっと下世話な言い方をすると換金化できない。ただ、それが人生にとって重要な要素の一つであることは疑う余地がない。

選評の中では、平野啓一郎が受賞作に対して厳しい批評を寄せていた。彼自身はもう片方の作品を推していたようだ。それは純粋に作品の批評というよりも、同じ京都にある大学の中で、京大を出ている彼にとってはそうではない受賞者に対して大学間のヒエラルキーを崩すわけにはいかないという人間の醜い部分に依るものだという下世話な見方を崩せない。それは取りも直さず、京都で大学生活を送ったものの京大ではなかったというコンプレックスをこじらせていそうな我が子が、これからの人生を送る上でのなにがしかの自信につながればという思いからのメールの送信であったことは確かである。


自分が大学生だった頃、Mr.Childrenの歌がローソンで流れていて、大学院生の頃にTomorrow Never Knowsを出していたのではないかと思う。その期間ぐらいは聴いていた気がするが、その後、いつ頃から聴かなくなったか定かでない。ひとつにいい年をしたおっさんが息を漏らしながら歌うことが気持ち悪く感じたからだ。もう、残尿も漏れ出していることだろう。

そのような理由で、「はるまついぶき」というこの季節にふさわしい曲があることをつい最近まで知らなかった。Misiaが歌っているバージョンがあったが、彼女の歌い方にはあまり合っていない気がした。残尿、もとい、息をもらす歌い方ではなく、Superflyバージョンを聴いてみたい春待つ季節。この季節にも、幾重にもいろいろな思い出が積み重なっている。

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