2015年3月29日日曜日

開花を待つ

真冬より太陽が高く上がるようになり、窓から差し込む光の足が短くなった。風はまだ温かくはないが、やや冷たく感じる冷気が肌に心地良い。東京では既に桜がほころび始めているが、このあたりはまだ蕾は固い。

私は太陽が届かなくなったリビングのフローリングに寝そべり、 おもむろにテレビをつけた。甲子園で地元選出の高校が大阪の強豪校と野球の試合をしていた。画面から雨の筋が見える。雨雲は夕方には関東に届くのだろうか。

序盤、地元選出校がリードしていた試合は、試合終盤に追いつかれ、逆にリードされ、 そして守備の乱れをきっかけに突き放された。もはや力尽きたか。そのような雰囲気の中で最終回の攻撃を見守る。

ヒットとフォアボールでランナーをため、 送りバントでツーアウトランナー2・3塁となり、迎えるバッターは3番。点差は2点。一打逆転も可能な状況だが、結果は外野フライで試合終了。試合後の選手たちの表情からは、順当な結果だった様子が伺えた。












2015年3月25日水曜日

解せないニュース

東洋ゴムの耐震強度の問題。私はなにかしっくり来ないものがあります。

あのような技術(免震・耐震)は、アイデアは施行側(ゼネコン)が出していて、ゴム会社は要求仕様のゴムを納品するだけのはず。ゴム会社が強度を偽ったとしても、受け入れ側のゼネコンが受け入れ検査で強度を検査して、要求を満たしていなければ受け入れを拒否するのが普通ではないだろうか。

極端な場合であれば、ゴム会社は名前すら出てこないケースもあり得たのではないかと思う。そこで、数あるゴム会社の中で当の会社が受注して、よせばいいのに会社名まで出して商品としてアピールしたところに、ゼネコン側との契約において免責の部分で不利な部分があったのだろう。

似たような例で言えば、海外製の心臓のペースメーカー。構成する部品の半分以上は日本製と言われる。しかし、メーカーの名前は表に出てこない。極端な場合だと、同じ会社で働いていても事業部が異なれば自社製のパーツが使われていることを知らないこともあるだろう。それは何かあった場合のリスクヘッジとして、納品側(この場合日本メーカー)は一切の責任を免れた契約にしているのだろう。

2015年3月21日土曜日

もうすぐ中学生

今朝は、次男のラグビーの練習が10時からあり、午後は6年生のお別れ会で16時までクラブに預けている。

昨日は子供らが通う小学校で卒業式があった。妻が撮ったビデオを見る限り、父親の出席も多かったようだが、私は出席しなかった。幼稚園の入園・卒園式、小学校の入学式までは私も出席していた。妻とはなんとなく暗黙の中で「父親まで一緒に来なくていい」という空気があった。敢えて私も出席するかしないかは聞かず、妻も聞いてこなかった。


昨日の卒業式では、通っていた小学校は制服がないため、卒業生は次に進む中学校の制服を着て出席することになっていた。大方、最寄りの公立中学校なのだが、都内の私学、近隣の私学、中には遠方の私学の制服も見受けられた。

子どもたちなりに、別れがあり、また来月には出会いがある。

小学校に入学する頃までは、親が手を引き、親の付き合いの延長に子どもたちの出会いもあったのだろうが、今ではすっかり自分の手で友との輪を広げられるようになった。

自分が小学校を卒業する頃は、まさか3年後に島を出て、鹿児島市内の高校に進むことなど想像もしていなかった。

当時、種子島には行商の人が、家庭に備える常備薬の薬箱からスーツ、布団、百科事典など色んなものを売りに来た。鹿児島からフェリーに車ごと載せて4時間かけて。うちの家にも当時、薬箱が4つぐらいあり、定期的に補充にまわってきていた。

その中で育英社というところが通信教育の教材を売りに来た。うちの親も気がいいのか、「お前がちゃんと勉強するのなら」ということで契約してくれた。親自身ももっと若いうちに勉強したかったというのもあったのかも知れない。結果的に、3年間、滞納することなくすべての教材をやり終えたと思う。

長男の人生が、わたしにとってのそのような時期とオーバーラップしてくる。


2015年3月14日土曜日

記憶のかけら#1線路沿いの道


忘れずに心に残しておきたい景色がある。もう5年以上も前のことである。

単身赴任していた頃、赴任先の宿舎から取引先の事業所へ出張することが多かった。多い時は週に2,3日訪問していた。訪問する際は、朝、宿舎にタクシーを呼び、 最寄りの駅まで行って電車で向かっていた。

宿舎から駅までのタクシーでの道のりは、歩道の整備されていない線路沿いの道路を走った。朝の時間帯は、通勤する同じ会社の人ともすれ違った。駅や近所から歩いて通う人。あるいは自転車で通う人。

その中に、同じ部署で働くある派遣社員の人の姿もあった。 当時26~27歳で、うちの部署に来る前は隣りの県で働いていたのだが、派遣会社を通じてうちの事業所の近くに転居してもらい、会社には自転車で通っていた。

出張の際、私を乗せたタクシーが彼女とすれ違う時、私は後部座席の窓から彼女の姿を見ていた。向こうはこちらに気付いていなかった。何を思いながら通勤しているのだろう。健気な表情をして自転車をこぐ姿に私は心が安らぎ、いつの頃からか出張の時は、彼女が今日も自転車で通っているだろうかと楽しみにするようになっていた。

そのようなささやかな楽しみもそう長くは続かなかった。

リーマンショックの後、事業所の経費削減が叫ばれるようになり、派遣社員は一律に辞めてもらうことになった。専門技能を身に着けた業務だからと、当時の彼女の上司の交渉の甲斐もあり、しばらくの間、特例的に契約は延長されたが、最終的にはやめてもらうことになった。

彼女が辞めて1年半ほどが過ぎた時、うちの事業所は震災に見舞われた。そういう意味では、その前に別のところに移っていたことは不幸中の幸いだったのかも知れない。しかし、彼女の郷里の地域は、比較的地盤が脆弱だった地域だったこともあり県内でも被害が大きいほうで、震災の混乱が収まりつつあった頃になっても、まだその被害が尾を引いて県域のニュースで取り上げられていた。

彼女にうちの事業所をやめてもらう時、まだ次の職場は決まっていなかった。一度、実家に帰ると聞いたが、その後、どうしているのかは分からない。震災の頃は、実家にいたのだろうか。もう結婚して、子供が一人くらいいてもいい年頃だ。当時とは違った姿で、彼女が自転車をこぐ姿を想像している。

2015年3月8日日曜日

diary#1

三寒四温真っ只中。冬に戻ったような日。日差しは弱く、雨が時折、降り注ぐ。

今日は本来は江ノ島に子供のチームメイトのヨットレースの応援に行くつもりだったのだが、天候が悪いので取りやめにした。

恵比寿の三ツ星レストランで修行していたという兄弟が、近所に店を開いたと聞いた。

恵比寿の店に行くことはおそらくないだろうが、近所の店にはそのうち行くことだろう。