熊本の地震が予断を許さない。余談も許されない雰囲気だ。
とりあえず、JAL,ANAのマイルを寄付した。こういった寄付は、財布の中の小銭的なものがふさわしいと思う。浅く広く。善意の出所がぼんやりして広いほうが、社会全体に対する信頼感が増すような気がする。
以前、会社の厚生会で地引網を何度かやったとき、それはまるで会社の縮図のように感じたことがあった。どれだけお金(資本金)があっても、引き手がいなければ回らない。同様に、被災地もいずれは寄付金よりもボランティアを必要とするようになるのだろう。それは、先般の鬼怒川決壊の際も同様であったと思う。
常日頃、誰かの役に立ちたいとは思っている。しかし、それは自分の家庭が順調に回っている時でなければ可能ではない。先日、妻が首の痛みでのたうち回っていたときはそんな余裕は無かった。幸い、妻は無事に回復し、ペインクリニックの通院も当初、毎週通っていたが、じきに2週間に1度になり、ついに再来週で終了の見込みとなった。
つまり、自分の家が順調に回っている時に誰かの役に立ちたいと思うのは、自社の発電所を持つ企業が「余った電気」を売るようなものだ。しかし、「余った電気」では本当に援けを必要としている人に届かない。あるいは足りない。そんなケースもあるような気がして、最近、無力感を抱いている。
とりあえず、JAL,ANAのマイルを寄付した。こういった寄付は、財布の中の小銭的なものがふさわしいと思う。浅く広く。善意の出所がぼんやりして広いほうが、社会全体に対する信頼感が増すような気がする。
以前、会社の厚生会で地引網を何度かやったとき、それはまるで会社の縮図のように感じたことがあった。どれだけお金(資本金)があっても、引き手がいなければ回らない。同様に、被災地もいずれは寄付金よりもボランティアを必要とするようになるのだろう。それは、先般の鬼怒川決壊の際も同様であったと思う。
常日頃、誰かの役に立ちたいとは思っている。しかし、それは自分の家庭が順調に回っている時でなければ可能ではない。先日、妻が首の痛みでのたうち回っていたときはそんな余裕は無かった。幸い、妻は無事に回復し、ペインクリニックの通院も当初、毎週通っていたが、じきに2週間に1度になり、ついに再来週で終了の見込みとなった。
つまり、自分の家が順調に回っている時に誰かの役に立ちたいと思うのは、自社の発電所を持つ企業が「余った電気」を売るようなものだ。しかし、「余った電気」では本当に援けを必要としている人に届かない。あるいは足りない。そんなケースもあるような気がして、最近、無力感を抱いている。
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