2023年5月31日水曜日

5月の終わり

 5月が終わり、6月を迎えようとしている。梅雨入り宣言はもうまもなくだろう。どくだみの花が咲き誇っている。ムクドリの群れはまだ現れないが、例年の駆逐音による駆除が実り、今年は現れずじまいだろうか。

シロツメクサは外来種だと朝ドラでやっていた。いわゆるクローバーの葉だ。葉には毒々しさがなく、外来種っぽくない。しかし繁殖速度は速く、近所の公園の芝はだいぶ置き換わっている。最近は芝刈りが実質クローバー刈りになってしまっている。芝との生存競争にも勝ちそうだ。周囲に威圧感を感じさせず、知らない間に徐々に勢力を伸ばす様子は何かに似ていそうだが、適当な例が思い浮かばない。

近所の交差点に、見た目にも毒々しい外来種の草が生えていることに気づいた。キク科の植物のようだが、茎や葉にとげがあり、容易には抜けそうにない。つぼみが玉ねぎのように大きくなっている。そのつぼみの先端から紫色の花が顔をのぞかせようとしている。花が咲くまでに抜くほうが賢明だろう。この危険な外来種がすぐ近くの公園に広がってしまうと、せっかくの住民の憩いの場も台無しになるだろう。赤ん坊や幼児が誤って上に寝転んだりすると、大けがを負ってしまう。

私は意を決して、その外来種を抜くことにした。とげは中厚手のゴム手袋を容易に貫いた。私は何か所か刺されながらも、靴の裏を巧みに利用することにより、その外来種の株を5つほど抜き取り、二重にしたゴミ袋に隔離した。これで向こう5年は、近所の公園も無事だろう。

草取りを終えると、ラジオから北朝鮮がミサイルを発射したニュースが流れた。前回まではラジオは無影響だった。今回からは何かが徹底している。我々もそろそろミサイルを避ける練習をしたほうがいいのかもしれない。



*アメリカオニアザミというらしい。キク科アザミ属の多年草。日本には本来分布していない外来種。和名に「アメリカ」とあるがヨーロッパ原産のアザミであり、誤解をさけるためセイヨウオニアザミと呼ばれることがある。

2023年5月29日月曜日

死諸葛走生仲達

これは、蜀の諸葛孔明が、死んですでにいないのに、あたかもまだ生きているかのように魏の司馬仲達に思わせ、恐れさせたという故事である。今、気づいたんだが、中国語の「走」は「行く」という意味で、走るという意味ではないはずだが、なぜ使われてるんだろうな。この頃は「走る」という意味で、その後、変わったのだろうか・・・

私もこうありたいものだと願うものである。

たとえば、「今度、あの会社に移る and/or 移ったらしい。」というだけで、その会社の株価が上がるとか。または、ある会社を辞めてすでにそこにはいないのに、「彼が築いたシステムは堅牢だから、いなくても大丈夫だろう」と、その後のその会社の信頼度に貢献するとか。

聞くところによると、前職では、その会社に「来るらしい」という噂だけで、顧客からの苦情が減ったとか聞いた気がするが、その効果はまだ続いているんだろうか。果たして、いつ頃まで続くだろうか。

来春のannual awardでreserveされていた席は、果たしてどうなったのだろう。


2023年5月28日日曜日

もののふや やたけ心の ひとすじに

 下の句は有名なので、省略。

アメリカがデフォルトの危機という。すでにいくつかの金融機関が破産したニュースがあった。かつては「世界の警察」たるべき費用の持ち出しのようにも思えたが、昨今の漏れ聞こえてくる国内事情からは、最近は別の事情なのかもしれない。

一方で、中国の不動産バブルははじけたのか、どうなのか。こちらも漏れ聞こえてくる断片的な情報からは、一部の建設業者が破産した様子はうかがえるが、全体として価格が暴落しているようには思えない。

日本がこの30年間、少子化とともに衰退の経過を見せたように、アメリカのデフォルトも、中国の不動産暴落も、一度、起きてしまえば、後に何が残るのだろう。アメリカのデフォルトが中国の不動産バブルを崩壊させる引き金になりはしないか。無理を承知で下支えしてきたこれまでの努力をあきらめてしまえば、世界の本当の姿が見えてくるのかもしれない。

中国では男の子を授かると大変だと、かつて仕事で付き合いのあった中国人の方々が口をそろえて言っていた。結婚に備えて、学歴・職業に加え、住む家も準備しなければならないという。そのような背景もあっての不動産バブルの発生だったのだろう。一人っ子政策をやめてしまった今、中国の不動産バブルは何をきっかけに終わるのだろうか。


屋久杉と馬毛鹿

 ブラタモリで「屋久島」が取り上げられた。来週は「種子島」とのことである。

ブラタモリは地質学からの視点が強い番組だが、その土地の歴史に振り返る価値がないと採用しにくい番組だろう。純粋に地質学だけの興味では、番組が成り立たない感じがする。

屋久杉は、その苗を本土なりほかの土地に持って行って植えると、普通の杉にしかならないという。その個体形成において、遺伝的要因よりも環境的な要因のほうが大きい一例かも知れない。屋久島は花崗岩でできている島らしいので「石上花裁」の状態なのだろう。

一方、馬毛鹿は、ニホンジカの中でも独自の遺伝子型をもつ集団となっているようだ。ニホンジカはミトコンドリアDNAの塩基配列から系統樹を描くと、山口県を境に北部と南部に分けられ、南部のシカのほうが中国のシカと近くなるようだ(文献1)。この系統樹に馬毛島が出てこないのは、もしかするとミトコンドリアDNAも独自に進化してしまっているのかもしれない。種子島が出てこないのは、馬毛島のシカと交雑しているからだろうか。

ブラタモリ「種子島編」の予告で、砂鉄をとるシーンがあった。果たして地質学者は、どのような捉え方をするのだろう。環境要因として砂鉄がなければ火縄銃は生まれなかった、というのは容易に想像できる。

2023年5月22日月曜日

狩猟民族としての何か

いくつになっても、古着屋巡りやヤフオクをやめられない。気軽にアクセスできるところにあるからという理由と、思うに、人類に潜む狩猟願望から来ているものではないか。似たようなところに、虫取りがあるのではないかと思う。

子供が大きくなってから久しく虫取りにも行っていないが、息子たちが二人ともうちを出て行った今年は、いよいよやることもなくなった。自分が飼うために、久しぶりにクワガタ取りに行こうかと思っている。

先日、ショッピングモールの屋外で開かれていたフリーマーケット的なところで、はく製になったオオクワガタが売られていた。数千円したと思う。うちにも大きなアリがガラスの中にはく製にされているキーホルダーがある。どちらかの息子が、旅行のお土産か何かに買ったかもらったのだろう。私にとっては、価値がわからない。成果物が何であれ、取りに行くという行為と時間に価値があるのだ。

もっと計画通りに成果をあげようとすると、農耕とか造園とかになってくるのだろう。重なりの部分に草取りがある。草取りは目に見えて成果が分かる。草とりは裏切らない。神道には創始者もなければこれという教義もないが、あえて言えば「その場所をきれいにする」と聞いたことがある。そういう意味では、草取りは宗教的にも良い効果がある。

2023年5月20日土曜日

私の宝物

あなたの宝物は?と問われると、恥ずかしくない範囲で答えるとすれば、家族の思い出の詰まったハードディスクだ。写真とビデオで3TB分くらいあるものを、いくつかのハードディスクに分けて保存している。ハードディスクはいつ壊れるかわからないので、duplicateで保存している。具体的には主に2台以上のデスクトップパソコンにそれぞれのセットを接続し、常時、通電するよいうにしている。それらとは別に、ブルーレイディスクにも焼いてある。ブルーレイもいつ読めなくなるかわからないので、一部はクラウドサーバーのサービスに保管している。

クラウドサーバーのサービスのひとつが、ソニーのPlay Memories Homeだったが、なんと「来年の2月29日にサービスを終了する」と一方的にサービス終了を宣言してきた。このあたりの感覚は、日本人と外国人とでは異なるのではないか。例えば、写真サービスについてはPicasaというサービスがのちにGoogleに買収され、Googleフォトに生まれ変わったが、保存してあったファイルはすべて引き継がれた。日本は災害も多く、それまで積み重ねてきたものが一夜にして無に帰することに慣れてしまっていないか。

くしくもサービスを終了する日が4年に一度のうるう年の2月29日で、IT泣かせの日だ。ソフトウェアではバグの原因となることも多く、そのせいで、永久保管になりはしないかとかすかに期待している。

ここのところずっと、懐かしい思い出の曲を記事の最後に貼って来た。これも、いつか自分が記憶を失ってしまったときに、こんな曲を聴いていたということの助けになれば。あるいは、ここの存在すら忘れてしまって、糸の切れた凧のように彷徨い、家族に迷惑をかけるのだろうか。

中古CDなどで確保できていない曲を、優先的に貼っておこう。これは中3(1988年)の春のリリースで、その秋の合唱コンクールで歌った曲。

 

2023年5月13日土曜日

For something more sublime~もっと崇高なもののため~

 来週予定されていたマレーシア出張は、幸いにもフライトを予約する前になくなり、それはそれとして、来週からまた新しいミッションのために働くことになった。

私は気ままな最後の週末を、地域の春祭りに参加して、といっても勝手にぶらぶら歩きまわるぐらいだが、来週からのミッションへと気持ちを切り替えようと思ったが、あいにくの雨で、一度、外に出たものの再び家に引っ込み、参加したとは言い難い。果たして、二日目の明日は満足に参加できるのだろうか。

元首相を狙ったテロに関連して、反共主義のことを考えていた。私が生まれる前の出来事。そして、憲法改正を巡って成立した55年体制は米ソの対立の間、自民党の安定政権として続き、1991年末にソ連が崩壊した後、1993年に自民党が下野して終わった。その間、国民が知らぬ間に宗教団体による浸食は進んでいたのだろう。そのことに深入りすると下品になるのでそうしたくない。

一方、その後、自民党が政権を取り返してからは、憲法改正に関する議論が表面化するようになったと感じている。しかし、我々は日々の生活の中で、どれだけ憲法を遵守することを意識して生活しているだろうか。

憲法について議論するのであれば、法の下での平等とか、基本的人権の尊重とか、もっと高邁で崇高な理念のために議論すべきではないのだろうか。自衛隊が違憲だとかどうとか、そのようなことは政令なり省令なり、極端な話、課長通知レベルでなんとかなるものではないのか。

日本語の中には「包摂」というエモい言語があることを知った。最近流行りの横文字に対する訳語であるが、たまに「包括」と間違えているケースもある。これらの言語も、明治維新で西洋の概念を取り入れた際の造語だろうか。また、中国はそれらの言語を多く取り入れたとのことだが、この「包摂」という言語も取り入れているのだろうか。

もしも憲法改正について議論するのであれば、SDGsやインクルーシブ社会などの延長で議論していただきたい。自衛隊云々は、運用でどうにでもなる問題だろう。

タイトルの英訳は、ほかに候補として「noble」もあったが、「ノブレス オブリージュ」という言葉が一部で汎用され、多少、手垢がついているように感じたためこっちにした。

たまには中二病みたいなコラムもよかろう(注:”中二病”という言葉は中国でも通じるそうだ)。