(以下、書籍からの引用)
貧しさは、比較があって目立つものだ。この町で生活保護を受けている家庭、そうでない家庭、社会的状況は違っても、客観的にはどちらがゆとりのある暮らしをしているのかもわからない。
金持ちが居なければ、貧乏も存在しない。
東京の大金持ちのような際立った存在がいなければ、あとは団栗(どんぐり)の背比べのようなもので、誰もが食うに困っているのでもないのなら、必要なものだけあれば貧しくは感じない。
しかし、東京にいると「必要」なものだけしか持っていないものは貧しい者になる。東京では「必要以上」のものを持って、初めて一般的な庶民であり、「必要過剰」な財を手にして初めて、豊かなる者になる。
”貧乏でも満足している者は金持ち、それも非常な金持ちです。だが、金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人間は、冬枯れのようなものです”
「オセロ」(筆者注:Othello。ウィリアム・シェイクスピア作《1602年》の悲劇)の中に登場するこんな台詞も東京の舞台で耳にすると、観念的で平板な言葉にしか感じない。しかし、今、こうしてあの頃の、あの町の人々を思い出すと、たしかにそのとおりだと思えてしまう。
(以上、引用終わり)
端的に言うと、地方の公立高校から慶応大学に進学すると、「うちの家、貧乏だったんだ・・・」と感じることが代表的な例と言えるだろう。
また、東京にいるとシェイクスピアの演劇の感動が薄れるというのは、東京という生活空間の病巣とも言えるだろう。
カマラ・ハリスさんの演説にもあったが「分厚い中間層の復活」は日本にとっても至上命題である。それを自覚しているのかしていないのかわからない自公政権は、無能である。
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