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2018年3月25日日曜日

英英辞典

子供の高校入学を機に、電子辞書を買い与えました。
学校からは英和辞典の指定があり、「ジーニアスの第5版」が入っていることが必要条件でした。それだけであれば、既に2年前のモデルから入っていたので、根が貧乏性な私は東京出張のついでに新橋のヤマダ電機で型落ちのモデルを1万3千円で買いました。ちなみにアマゾンでは同じものが2万円くらいしています。

紙(書籍)の辞書の読み物としての意義を否定するわけではありませんが、電子辞書を積極的に選ぶ理由として、外国人とのコミュニケーションにおけるツールとしての有用性があります。慣れれば辞書なしでも適当に何とかやり過ごすようになりますが、慣れないうちは側にあると心強いのではないかと思います。

ありとあらゆるコンテンツの中に、ロングマン英英辞典がありました。第6版が入っていました。たまたま私が高校入学時に学校指定で購入した書籍版が手元にあり、確認したところ第2版(1987年発行、1989年にreprinted with correction)でした。

今の時代は、特に学校から購入を指示されなくても、電子辞書を買えば当たり前に入っていて、あらためて便利な時代になったものだと思います(我々の時代は、つくづく背伸びしていたものだと思います)。そのようなニュアンスを間接的に感じて欲しくて、高校入学時のクラスと私の名前が書かれたペーパーバックを息子に渡しました。読み物として、たまに役立てばと思います。

2017年1月23日月曜日

回帰熱

初場所で稀勢の里が優勝し、郷土出身力士ということで地元も盛り上がりそうな気配を見せている。こんな時、土浦駅前にイトーヨーカドーでもあれば優勝セールでもやりそうなところだが、約4年前に閉店してしまった。ちょうどこの2月に閉店を迎えようとしている西武つくば店の閉店セールの一部に稀勢の里優勝セールを上乗せし、西武の閉店に花を添えてほしいところだ。

次男がまだ柔道をやっていた時に、県南の柔道大会には鳴戸部屋の関係者が顔を出し、目に留まるとスカウトされるという噂を聞いたことがある。また、土浦市にある水郷公園には、常時、わんぱく相撲大会の応募チラシが置いてあり、次男がまだ3,4歳の頃に親の言うことを聞かないと「相撲大会に申し込むぞ」と脅すと、マワシを締める事を嫌がる次男はしぶしぶ言うことを聞いたものだった。あのチラシはどこかにしまってあるはずだが何処へいったのだろう。

2016年7月16日土曜日

MRIと献血

今日、次男が大学病院の画像センターに脳のMRIを取りに行った。少し前から頭痛があり、暑い日にめまいや吐き気があったからだ。先日のラグビーの交流戦でも体調不良で動きがイマイチだった。

数年前に、近所で脳腫瘍で亡くなった子がいたので、念のためだった。検査結果は異常なかった。あくまでも念のためだったが、異常なしの診断が出るまでは気分が晴れなかった。妻も同様。ただし、次男は偏頭痛持ちの体質なのかもしれない。

先週、献血ルームを訪ねたが、抜歯してから3日以内ということで採血してもらえなかった。ドナー保護のためではなく、血液が口内細菌に感染している可能性があるからとのことだった。

今日、出直して献血ルームに向かった。成分献血は予約できるらしく、そちらの予約は混んでいた。私は全血の希望で、3番目だった。

採血中にDVDを見ることが出来、私は「フラガール」(2006年日本)を選んだ。「タイタニック」(1997年アメリカ)があればそちらを選んだだろうが、あいにくなかった。

フラガールは、くしくも私が映画の舞台である福島県いわき市に近い茨城県北に単身赴任してまもなくの公開だった。施設の名称は「スパリゾートハワイアンズ」という。日立グループの福利厚生のひとつとして、年に何度かチケットの配給があった。小さい子どもにとっては、東京ディズニーランドより人気のスポットだ。関東西部でいえば、「ユネッサン」と似た施設と思えばいい。

大きな違いは、お抱えのフラガールたちがいることだ。ファイアーダンスを行う男性も数名いる。映画では、研修生候補の中に蒼井優がいた。

私が単身赴任して2年目に、近所のコンビニで高1の女の子がアルバイトを始めた。女優で例えると、蒼井優と黒木華を足して2で割った感じだった。あまり変わらないかも知れないが。

昨日まで中学生だった女の子が、徐々に化粧を覚え、あっという間に高校を卒業して旅立っていった。東京の短大に行くということだった。今、25歳くらいか。まだ都内にいるのか。


p.s.
お気づきの方もいるかもしれないが、私のブログでは広告が表示されない設定にしている。Bloggerはデフォルトでそのようになっている。広告が表示される場合、表示される内容は閲覧者の検索履歴等に依存すると思うが、サイト主としてはいらぬ勘繰りをされたくない故。






2016年7月12日火曜日

ジワジワくる話

仕事を終えて自宅に着くと、同じマンションに住むご婦人が我が家を訪ねたものの留守で帰ろうとするところだった。長男は塾、次男はそろばんで妻はその送迎。

「○○さんですか?」
「はい」
「中学2年生にお子さんがいますか?」
「はい」

そのようなやり取りをした後、彼女が言うには昨日、学校で中1の息子さんの自転車の鍵が壊れたのだという。

「あの馬鹿息子、また悪さしたか」と一瞬、私の表情はこわばったが、話を聞くと鍵が壊れた自転車の後輪を持ち上げて帰っていると、その日はたまたま徒歩で通学していた息子が一緒になり、自転車を持って帰るのを手伝ったのだという。

そのお礼に、とのことでアイスクリームをいただいた。

もうひとつ。

先日、子供達が幼稚園の頃のビデオを見ていた。体格のいいお父さんがいて、「この人だれや?」と妻が言ったとき、「○○さんのご主人や」と私が教えてやった。当時は知らなかったが、その後、小学校時代にどこかでご家族でいるところを見かけて知った。

その数日後、中学校の授業参観があり、妻がその奥さんと一緒になり、「そういえば幼稚園のビデオを見てたら、体格のいい人がいて誰だろうと思っていたら、旦那が『○○さんのご主人や』って教えてくれた。何であの人がそんなこと知ってんねん!」と軽く笑いがあったらしい。

なんか、俺がその奥さんにずっと思いを寄せていて、どんなご主人か観察してたみたいやし。密かにに思い続けられてたみたいに感じで、その晩、ジワジワ来てたりして。

小学校を卒業すると中学校には行くこともないので、基本的には会うこともないのだが。

どや、ジワジワ来たか?


2016年4月21日木曜日

熊本城



今回の震災で、無残に痛んでしまった熊本城。

初めて訪れたのは中学生の頃の修学旅行で、2回目が写真の家族旅行のときだった。


今後の修復では、この姿に忠実に近づけていくことだろう。

しかし、人の人生の場合は、仮に不運に見舞われてしまった場合、かつて思い描いた理想に近づいていくことだけが幸せではないのかもしれない。

逆境を経たからこそ見えてくる世界もあるだろうし、また予想もしない場所にたどり着き、そこに幸せがあるかもしれない。


2016年2月17日水曜日

年の差

朝ドラ「あさが来た」での五代とあさ(広岡浅子)の師妹愛が話題である。史実として明確な資料はなく、状況証拠からの想像(フィクション)の部分も多いという。

そのフィクションに無理がないかを自分なりに検証しようと思い、ひとつの指標として年齢に注目してみた。

すると、五代とあさの年齢差は13歳であった。五代が没するとき(享年49)、あさ36歳。

そのことから、たとえいろいろなエピソードがフィクションだったとしても、無理のない設定だと思った。

多少、自慢が入るが、今現在、(二人きりでも)飯に付き合ってくれる人が3人いる。3人とも30~35歳で私より10歳前後若い。普通に、無理なく、そのような関係を築ける年齢差として10歳くらいは必要なのだと思う。

私も彼女たちに何か役に立てるだろうか。立ちたいとは思っている。

2016年2月14日日曜日

The English Patient

若かりし頃に背伸びして読んだ小説を、もう一度、読み直してみようと思い、図書館で「イギリス人の患者」(新潮社)を手にした。訳は土屋政雄氏だった。

24、5歳の頃だったと思う。映画化された作品も観たが、当時、ペーパーバックを買い、原書で読もうとしたことを覚えている。翻訳を読んでみると、当時の私の読み違いにもいくつか気づいた。

映画では、飛行機での自爆行為に及ぶ夫が妻の不倫にリアルタイムで気づいているような進行だったと思うが、原作(小説)ではその恋は理性的な判断により終えられた後で、しばらくして何らかのきっかけで夫が気づいたという設定だった。当時、原書で読んだ時には気づかなかったが、恋が終わった後、飛行機事故に遭遇するまでの男(イギリス人の患者)の心の葛藤の描写が秀逸だと思った。当時、気づかなかったのは、英語力に問題があったのか、あるいは人生経験が不足していたのか。

砂漠での共同生活という特殊な環境で生じてしまった過ちが悲劇を招いたのか。あるいは単に夫の病的な不寛容さが招いたものだったのか。飛行機での自爆行為で即死した夫に代わり、妻を看取ることになった男(イギリス人の患者)は、実はハンガリー人だった。ハンガリーには、今日でもドイツ車の工場が多く存在するように、すなわち男はドイツ側の人間(スパイ)としてずっとマークされている人物だった。ハンガリー人はアジア人の血を引くとされる。スリランカ人の作者が、そのような背景も考慮に入れていたのかどうか・・・

では、今日はこの曲でお別れです。今日は春一番が吹き荒れ、温かい一日となりましたが、明日はまた冬日に戻り、冷え込むそうです。東京砂漠で風邪など引かぬよう、ご自愛下さい。



余談ですが、ご近所の厩舎の方が前川清の愛馬「コイウタ(恋歌)」を飼育(管理)されておられるそうです。




2016年2月7日日曜日

The Remains of the Day

沈んでゆく夕陽が東側の高層ビルに反射し、波長の長い暖かな光が日没までのわずかの間、その辺りにも留まる。「陽の名残り」と呼んでも良さそうな都市特有のこの風景を目にするたびに、私の脳裏にはカズオ・イシグロの「日の名残り」が思い浮かぶ。

この作品を知ったのは大学生の頃だった。20年ほど前の事だ。作品が英国の文学賞を受賞し、映画化された頃だったと思う。当時、映画を観たかどうかは覚えていない。だた、大学卒業を控えた時期に、その土地で過ごした日々の思い出を振り返るとき、題記の原題を呟くとその響きの良さが思い出に何か格調の高いものを添えてくれる気がした。大学の卒業アルバムの研究室のページのどこかにも書いた覚えがある。

現在、氏の作品がドラマ化されて放映中とのことである(TBS金曜ドラマ「私を離さないで」)。氏の作品は、翻訳版はハヤカワ文庫からしか出ていないが、作品によって訳者は異なるようだ。中でも「日の名残り」を訳した土屋政雄氏は評価が高く、今回のドラマ化された作品も土屋氏が翻訳されたようなので機会があれば読んでみたいと思う。作品の土台となる部分に、クローン技術に関する生命科学と生命倫理がある。

iPS細胞の誕生が、人類のエゴイズムをクローンに着手するまでに至らせていないと言えるかもしれない。ES細胞ではクローンに限りなく近づいてしまう。iPS細胞の技術は、すべての個人から幹細胞を作ることも不可能ではないだろうが、こと臓器移植に関しては白血球のHLAが一致していれば良いらしいので、必ずしも自分自身の細胞から作製する必要はないそうだ。よって、約50種類あるHLAのタイプ別のiPS細胞シリーズを作製し、そこから移植細胞(臓器)を作製すればよい。中でも、もっとも頻度の高いHLAサブタイプを有するiPS細胞は、既に出来ているとのことである。

以下、サイトから抜粋。

―イシグロさんが原作「Never Let Me Go」を通して表現したかったことはどんな事ですか?
私は、この物語は普遍的な人間のありようの残酷さに対抗する本質的なラブストーリーだと思っています。我々は、人間として、皆それぞれが死ぬ運命にあり、老いて弱って死んでいくのは人間の定めの一つなのだという事実に向き合わなければなりません。このことに気づいたときに、またこの世界でお互いに共有できる時間がとても短いものであると分かったときに、我々にとって一番大事なものは何でしょうか?この物語が、物質的な財産や出世の道よりも愛や友情そしてこれらを我々が経験したという大切な記憶が本当は価値があるものであると思わせてくれることを願います。別の次元では、この物語が、歴史的に我々がさまざまな形で作り出し続けている残忍で不平等で不当な世界に対する隠喩を提示しているというふうに見ることもできるかもしれません。

昨年夏にNHK教育テレビで放送された氏が講義する「文学白熱教室」と言う番組をたまたま見た。その中でも隠喩(メタファー)という言葉をしばしば使っていた。作品「日の名残り」も、物語で語られるストーリーは何かのメタファーであり、裏には別に本当に伝えたい何かがあったのだという。



2016年2月6日土曜日

Lascia ch'io pianga




オペラ《」リナルド》(HWV7a)より
第22曲、Almirenaのアリア ChA58a(p61), HHA II/4

Lascia ch'io pianga
mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte
de' miei martiri sol per pietà.


買い物から帰ると、妻がこの曲を弾いていた。肘の調子がいいようだ。

去年、長男の卒業式のPTAの出し物でいきものがかりの「エール」を合唱することになり、妻がその伴奏を担当した。去年の今頃は体育館に集まってその練習をしていた。オリジナルから移調してキーを下げて歌ったようだ。

2週間ほど前に妻が首の激痛に襲われてから、しばらく寝たきりのような日々が続いた。今は日常生活に支障が無い程度には回復しているが、寝たきりのときは介護生活を前倒しで経験したような感じだった。

そのとき、「来年、次男の時はもう弾けないかもしれない」と、弱音をこぼしていた。私は、仮にそうなったとしてもそれで仕方ないと思っている。無理だったら、他の人に任せればいい。長男の代の学年に比べると、次男の代の学年にはこれまで十二分に貢献してきた。

昨日まで普通に出来ていたことがいずれ出来なくなる。老いは必ず来る。それが多少、早かったとしても悲しむ必要はないだろう。それが出来ていた頃の輝きは変わらないのだから。

余談。
この人モンセラート・カバリェ(Montserrat Caballé, 本名:Maria de Montserrat Viviana Concepción Caballé i Folc、1933年4月12日 - )は、当時、マリア・カラスと人気を二分した人だそうだ。これだけゆっくり歌えるのは肺活量に自信があるからとのこと。クイーンのボーカルもファンだったという。このレベルの人はその後、出てきていないという。




2016年2月3日水曜日

釣りの心得

子どもの頃はよく父に連れられて釣りに行った。春先は砂浜からキス釣り。初夏から夏にかけては堤防からシマアジ(たぶん、本州より一回り小さい)を釣り、たまに仕掛けと錘(おもり)を沈めすぎて海底を這わせるとカレイが釣れる事もあった。

当時はまだ4級船舶免許というのがあり(今は1級と2級しかない)、その免許で運転できる小さな漁船を沖へ出すこともあったが、そこでは自分が何かを釣った覚えが無い。

父の釣りに付いて行くようになって言われたのが、「竿を投げる人の、利き手側には居るな」ということだった。右投げの人の場合はその右側、左投げの人の場合はその左側にはいてはいけないと。それはスイングした際に仕掛けの針がひっかかったり、投げ損じて錘(おもり)が当たったりする危険性があるからだ。磯釣りだと竿をしならせ思い切り遠投する。バス釣りなどしかやらない人は、そういう注意は聞いたことは無いかもしれない。

郷里を離れてからまったく釣りはしなくなったが、長男が小学校低学年で釣りに興味を持った頃、安い小さな投げ竿セットを買って、土浦のイオンの側を流れる川で竿の投げ方を教えた。そして、上の注意事項を教えておいた。父が祖父から教わり、そして子に教えたことの一つとして、大きくなるまで覚えていてくれるだろうか。


2016年1月9日土曜日

鯛の神経抜き(神経締め)

今日の夕食は家族で近所のホテルに入っているフレンチへ。そのレストランはここ1、2年の間にシェフが変わったそうで、その後、手ごろな値段で美味しい料理が楽しめると評判が高い。

コース料理の一品として鯛のソテーが振舞われた。その時、料理を運んできたソムリエの説明では、「この鯛は九州・天草で揚がった鯛で、神経抜きという技法で鮮度を保って出荷されています」とのこと。この「神経抜き」とは、生きたまま水揚げされた後で魚を締める際に、脊髄に針金のようなワイヤーを通して脊髄を破壊することで死後硬直を遅らせ、鮮度をより長く保つことができる魚の締め方だそうだ。

この技法(後で調べると「神経締め」とも言うらしい)は日本発祥で、兵庫県の明石でいち早く取り入れられたという。妻もテレビで見たことがあるそうだ。

この話を聞いて、私は過去に経験したある動物実験の手法を思い出した。かれこれ15年近く前になるが、脊髄破壊ラットというネズミを使った実験をやっていたことがあった。中枢神経系の影響を排除する為、ラット(ネズミの一種で200g~400gの大きさでマウス、いわゆるハツカネズミの10倍くらいの大きさ)の脊髄の中に同じように金属の棒を通して脊髄機能を破壊(麻痺)させて、人工呼吸器下で薬の効果を評価する実験をやっていた。その時は、本来は粉を計るのに用いるスパーテルという鉄の棒の先を尖らせて、麻酔で眠らせたラットの眼窩(頭骸骨の目の所のくぼみ)からその棒を脊髄の中に通していた。そんな実験を4年ほどやっていただろうか。

この脊髄に針金を通す技法を英語でpith(脊髄穿刺する、脊髄破壊する)という。上記のネズミは"pithed rat"と呼ばれる。よって、神経抜き(神経締め)された魚を外国人に説明する際には、英語では"pithed fish"と呼べば適切に伝わるだろうか。

そして、さらに考えが及んだのが、どうやって漁師がその技法を取り入れたのだろうかということだ。もともと血抜きや温度管理などで鮮度を保つ工夫は行なっていただろうが、いつ、どのようにしてこの技法の発明に至ったのか。

神経系の専門知識や生物の死後の変化に関する専門知識のない、一般の漁師が試行錯誤でこのような技法の発明に繋がるだろうか。それは考えにくいのではないだろうか。一方、水産大学でそのような研究をされている方もいるのだろうか。それも考えにくいのではないかと思う。可能性のひとつとして、釣り好きの医学系の研究者がなじみの釣り船の漁師に教えてそれが試されて広まったということは無いだろうか。あくまでも私の経験をつなげた空想の域を出ないが。

もしこの技法が、魚の締め方に進化をもたらしたブレークスルーであったとして、それが本来、漁業とまったく異なる分野の専門知識が取り込まれて発明に至ったのだとすればとても画期的なことだ。そして、それが人間同士の触れ合いによるノウハウの伝授であったとすれば、尚、素晴らしい。




2015年12月22日火曜日

縁のある名前、ない名前

昨日、派遣社員の人が辞めて行った。NHK「おはよう日本」の和久田アナウンサーに似た感じの人だった。

40数年生きてくると、この名前とは縁があるな、と思うことがある。と同様に、この名前とは縁がないな、ということもある。

「ある」ほうで言えば、私のサラリーマン人生の中ではじめて女性の後輩として面倒を見るように配属された人は、妻と同じ名前だった。漢字まで同じだった。妻と結婚した後のことである。

一方、「ない」方で言うと、私が日立系列を辞めた直後に働きすぐに辞めてしまった会社で、同じグループで働いていた人と、昨日、辞めていった派遣社員の人は同じ名前だった。

以前、すぐに辞めてしまった会社の人は、私が辞めた後、まもなく辞めてしまったそうなので、どこかで彼女の人生にいらぬ波紋を立ててしまったのではないかと心が痛んでいた。

昨日、辞めた人が入社してきた時、同じ名前であることに気づき、どこかでその時の代償としてその人のことをサポートしてあげられたらいいな、と思っていたので、残念であると同時に「縁がない名前だな」という感が強い。 もっとも、彼女にとっては正社員としての希望の職が見つかったとの事であるので喜ばしいことではあるが。

彼女は地方の大学を出て、その後、一度は地元で就職した後、東京に出てきて働き出したそうなので、その過程に勝手に「失恋」の影を感じていた。

私の知り合いにロンドン駐在中の人がいて、彼はまだ独身なので、帰ってきたら会わせてみようかなというところまで「のびしろ」を描いていたので、つくづく残念である。

というわけで、今日はこの曲で一日をはじめたいと思います。皆様もよい一日を。



2015年12月20日日曜日

ルーティーンroutine_1回/年

少年ラグビーの今年を締めくくる県のチャンピオンシップのため、日立市へ。自家用車組と貸し切りバス2台とで朝6時出発、18時帰着の12時間の道中であった。

空き時間に去年は駅の方を回ったが、今年は前の勤務先の周辺を歩いて回った。どちらも海に近い場所にあり、会場のグランドから歩ける距離だ。前の勤務先は事務棟が新しくなっていた。他は4年前とほとんど何も変わらない街並み。

帰りのバスの中で、後ろの席で幼稚園児のママ同士が会話を していた。もうすぐ幼稚園も卒園で、寂しくなるといったような内容だ。私も相応の時期に似たような感情を抱いた気もするが、もうかなり前のことのようで感情として呼び戻す事は難しい。

それに関して、子どもが小さい時の映像はなるべくまめに撮っておいて、大きくなってから(小学校高学年頃)見返すことをお薦めする。叱る事が多くなった時期に見返すと、親も子も、愛情をたっぷりと注いだ時期を思い出し、子どもも「自分は愛されているんだ」ということを再確認するかも知れない。別に見せる必要はない。親がリビングで適当に見ていれば、子どもも「なんだなんだ?」といった感じで部屋から出てくるだろう。

そのあたりの映像を管理するテクニカルな方法については前にも述べた事があるが、気が向いたらまた書く。

あまり大きな声では言えないが、子どもの習い事の奥様方にも素敵な方がいらっしゃる。それは以前の習い事のときから同様で、まれにご主人と面識がある場合もある。私の場合はさいわいそっちの方面は東京で間に合っているので、今のところ地域社会にご迷惑をかけずに済んでいる。

このような子どもを通した出会いは、幸い、子宝に恵まれた親同士が知り合う ことによるものであり、なかなか子宝に恵まれないご夫婦の苦労や悩みは見えてこない。

彼女にも早く子どもが出来るといいのだが。母としての視点を備えると、女としての魅力も益々、増すだろう。そしてその子どもが男の子だったら、私の「クワガタ・シリーズ」がまた日の目を見る。次回は、「クワガタ採りツアー」まで何とかたどり着きたい。旦那は置いてこさせて。







2015年12月6日日曜日

思い出の上書き

平日の通勤時間は、らじるらじるでNHK第一のラジオを聴くことが多い。

朝、私がいつも乗る電車は8時5分に北千住に着くのだが、その時刻から「すっぴん」という番組が始まる。日替わりのパーソナリティと、私より少し年上の女性アナウンサー(藤井彩子アナ)との間で繰り広げられる 軽妙なトークを参考に、まだ寝ぼけた頭で年上の女性との甘い会話を妄想したりしている。

先々週の金曜日(11/27)、もうすぐ会社に着こうかという時間帯に下の曲が流れた。


NHKでこの曲がかかる事は意外だったが、とても懐かしく感じた。
この曲は1995年にイギリスのPULPというバンドによって作られたものだ。当時、OASISがビートルズを越えるかという(少なくとも本人達はその勢いで吠えていた)時期だったが、このバンドはそれほど日本では注目されていなかったのではないか。私が知ったのも、その頃、通っていたNOVAという英会話学校でイギリス出身の先生に教えてもらったことがきっかけだった。

この曲は、一見、ポップな感じで明るい曲というイメージだが、詩はとても切ない詩だ。当時、22歳だった私はそのような詩の内容は意識せず、ただ、ノリのいい曲として聴いていた(ここでは本題から外れるのでその詩の内容には言及しない)。

読書でも読んだ回数や読んだ年齢、つまり自分の持つ知識や置かれた状況によってその本から受ける印象が異なるように、音楽や絵やそれ以外のことも同様かもしれない。上の映像にしても、今の自分には「歌っている人が○○さんに似ているな」というのが気になって仕方がないが、当時は(その○○さんとはまだ知り合う前なので、当然ながら)そのような感覚はまったく抱いていない。

当時、分からなかった事や知らなかったことを踏まえた上で、今、改めて過去の出来事や様子、交わした言葉、思い出せることの全てをとらえ直してみる。そうする事が、これからの日々をより充実させる上で大切だと感じている。

2015年11月23日月曜日

コートの新調

今日、愛用のコートを駄目にしてしまいました。

今日は朝から小雨舞う中、地元で次男のラグビーの交流会でした。3チームが集まっての交流会でしたが、その場で豚汁の炊き出しが振舞われました。今日は昼間でも13℃までしか気温が上がらない予報だったので冬用のコートを着ていたのですが、うかつにも袖口にこぼしてしまい、その場で水道で洗ったのですが臭いが残っていたので、うちに帰ってから洗剤でその部分だけ洗いました。

部分的にアイロンをかけようとして、何も考えずポケットのあたりに当ててみたら、なんとあっさりと溶けてしまいました。転倒してこすれたかのように、その部分が破れてしまいました。アイロンで服を駄目にしたのは記憶にないので、初めてではないでしょうか。

この冬で12シーズン目を迎えようとしていたイタリア製のものでした。多少、痛んできてはいたものの、とても気に入っていました。私と一緒にいろんな女性を、ではなく、色んな会社を見てきました。

だめにした直後はさすがにショックは隠せませんでしたが、しかし、こういうことがないといつまでも買い換えない性格なので、ちょうど良かったかも知れません。本当は「買い換えたいな」という気持ちがあっても我慢する方なので(恋も抑えてしまう方ですし・・・)、かえって「これは買い換えんとしょうがないな。不可抗力」という状況になってくれてありがたい部分もあったかも知れません。

時間があったのでさっそく新しいコートを探しに行くことに。近所のショッピングモールで2,3店舗見て、 決めきれなかったので車で30分ほどのアウトレットへ。最終的に、「京都人」の米国版のようなブランドにしました。

一方のアイロンの方は、直後は溶けた繊維がこびりついて、他の布で試してみるとアイロンのすべりが悪くなったような気がしました。しかし、最終的には完全ではないものの気にならない程度まで取る事が出来ました。おそらく来週からまたいつも通りに使えるのではないかと思います。




2015年2月27日金曜日

フォッフォS村・エピローグ

私が高1の秋から卒業までを過ごした下宿は、今は商売をやめてしまっている。卒業後、ずっと年賀状を交わしているが、2年ほど前から住所が変わっていた。下宿のおばさんが、手書きでもう引退したと書いていた。

S村先輩の学年のマドンナだったS野さんは、地元の大学の医学部に行ったことは在学中から聞いていた。ネットで調べると、進んだ診療科や結婚後の姓も分かった。かつて私は、その診療科に関わる診断薬を作っていた事があったが、はっきり言ってあってもなくてもどうでもいいような製品なので(その証拠に、年間の特許報酬が1万円ちょっと!)、多分、S野さんは製品の名前すら知らないだろう。

最後に、タイトルの「フォッフォ」とは、S村先輩が笑う時の笑い方を擬態化したものだ。

2015年2月26日木曜日

フォッフォS村

20年以上前の、古い記憶を辿って行くと、一人の人物を思い出しました。 

高校時代の2つ上の先輩で同じ種子島の出身の先輩にS村先輩という人がいました。先輩は隣の市の榕城中学出身でした。柔道でいうと、烏帽子らが出た中学です。 弟がいて、私と同い年でした。弟とは種子島時代から顔見知りでしたが、弟は、高校はKの理数科に通っていました。 Kの理数科は寮があるのですが、うちの高校には寮がないので、私は下宿していました。高1の秋から下宿を変わり、そこでS村先輩と知り合いました。 

S村先輩の学年にはS野さんというマドンナ的な人がいました。その人がバレンタインデーにクラスの男子全員にささやかな義理チョコを配ると、男どもはどいつもこいつも鱗粉を撒かれた蝶のように参ってしまうといった体たらくでした(本来、鱗粉を撒くのはオスですが)。 

私が、そのS野さんについて「確か小学生の頃は種子島に住んでいて、私と同じ野間小学校に通っていたはずだ」というスクープ情報をS村先輩に提供すると、「何?」と俄然、盛り上がり、早速翌日、学校で裏をとりに本人に確認したらしく、その結果、「本当だった」と、まんざらでもない様子で満足していた様子でした。同じ下宿には他に奄美大島とか屋久島出身の先輩いましたが、その時ばかりはS村先輩を羨望の眼差して眺めていました。 

その精神的な充足感をそのまま受験にぶつけた結果、S村先輩は、見事、現役で京大工学部に合格しました。 

 S村先輩は、その後、どうしているのでしょうか?卒業以来、お会いしていません。弟とも会っていません。 屋久島出身の先輩とは、私が25歳くらいの時に港で会いました(なんか、かっこいいだろ)。しばらく関西にいた後、地元の役場で働くために、帰るところでした。 

K先輩なら知ってるんじゃないのかな?と思って、質問に質問で返してみました。