映画「マディソン郡の橋」は 1995年9月23日 (日本)に公開された、クリント・イーストウッドとメリル・ストリープの中年の恋愛映画である。解説は他を。
以前、妻がママ友と新大久保に繰り出した話をしたが、私は理解のある夫かもしれないが、尻に敷かれて大人しくしている男でないことは皆さんももうご存知でしょう。
わたしも、罪のない範囲で羽を伸ばす。心の羽根を伸ばすことは自由である。
古い歌にもある(うたは私よりひどい)。
「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」と。なんのこっちゃ。
この、マディソン郡の橋を見たのは最近だが(去年あたりBSでやってた)、印象に残ったのが、メリル・ストリープの夫が亡くなると、彼女はすぐに(四十九日も明けぬうちに、というとジョークに聞こえるが)クリント・イーストウッドの消息を探したことだ。しかし、彼の消息はわからなかった。そして彼の死後、彼女のもとに遺品が届いた。
もしかすると、ストーリーとしては正確ではないかもしれない。
これが、インターネット社会以前の、恋愛パターンの限界である。しかし、インターネットが発達した今日では、恋愛ストーリーの展開も飛躍的に拡大した(はずだ)。他で例えるならば、よく言われるように、ピアノという楽器がショパンの頃よりは進歩して、当時、想定できなかったほどの演奏の幅を可能としているように。
テクノロジーが進歩しても、人の心や身体はそれほど変わらない。今でも、女性心理として、夫が死んだ後に、夫以外の男の消息を尋ねたいと思うことは十分にあるだろう。
その時、それが可能となるようにメール、SNS、その他あらゆる手段で、ホットラインを多く残しておくことだ。つまり、メールアドレスを頻繁に変えてはならない。たしか、それに関連して、離婚したお母さんが子供からの連絡を待って一度もメールアドレスを変えなかった泣ける話があったはずだ。
その行為には何の罪もない。ただ、問題は私の寿命がそれに答えられるかどうかだ。
お別れの歌は当然こちら。
昨日、献血をしたときに、私と同じくらいか上の年齢の看護師さんが意図的に私の手を握ったような気がして、上のエントリーを思いついた。たぶん、自意識過剰か気のせいだと思うが。
抜いてくれるんやったら、血だけじゃなくていろいろ抜いてもらえると助かるけど・・・
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